鳥栖の宿場町

鳥栖の宿場町
鳥栖の宿場町

鳥栖の宿場町

今から約400年前、徳川幕府が誕生し、国が安定すると、五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)、八脇街道(仙台松前道・水戸街道・三国街道・北国脇往還・北陸道・伊勢街道・山陽道・山陰道)、宿場、関所、一里塚などの交通網が整えられました。長崎街道は、山陽道につながる脇街道として整備されました。豊前国小倉(現在の北九州市小倉北区)の 常盤橋を起点として、肥前国長崎(長崎市)に至る、57里(約223.8km)の道程です。江戸時代の鎖国状態の中で、幕府が唯一外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として、非常に重視されていました。長崎街道を往来した人物は多く、オランダ商館のケンペルやシーボルトをはじめ、平賀源内、緒方洪庵らの蘭学者や吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛等幕末の志士たちがこの街道を通って行きました。日本の歴史を大きく変える立役者たちを往来させていた道として、今もなお多くの歴史ファンが訪れています。

長崎街道が歴史上、最も大きな役割を果したのは幕末から維新の動乱期。西欧諸国によるアジアの植民地化に危機感を持った人々が行き交う道となりました。長崎で海軍術を学んだ勝海舟、長崎に日本初の海運会社・亀山社中(のちの海援隊)を設立した坂本竜馬、倒幕運動に奔走して長崎へ向かった伊藤博文など、長崎街道はこれら維新の志士たちの熱い思いを見守ってきたのです。また鍋島藩は鍋島藩自体他県と交わることを制限する二重鎖国状態を取って、長崎から海外の先進技術を密かに入手していました。鍋島藩10代藩主、鍋島直正は鉄製大砲を鋳造するための反射炉をつくり、最新の軍備を充実させていきました。これが戊辰戦争で大きな力を発揮し、新政府の樹立を助けました。こうして鍋島藩は明治政府の新しい国家体制づくりに参画することになるのです。

長崎街道には、25の宿場が置かれ、その内、鳥栖市内には「田代宿」と「轟木宿」の2つの宿場町がありました。

田代宿

田代宿は、対馬藩の飛び地だった田代領の宿場で、昌元寺町、新町、上町、下町、外町の五町からなっていました。北東の出入口には日田彦山道へ分かれる道しるべとして追分石が置かれ、外町には久留米道へ分かれる追分石が置かれていました。

鳥栖市田代外町・追分石

轟木宿

轟木宿は、鍋島藩領の東端にある宿場町で、上町、中町、下町、新町の四町からなっていました。対馬藩領とは轟木川を境にして分かれていました。 江戸時代の記録には、「人家140軒ばかり、宿屋・茶屋多し」と記されています。

鳥栖市秋葉町